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文芸趣味開拓 / 詩・短歌・俳句・断想(美学etc)
記号:〈主観〉[間主観と言い張るもの]"一般的表現" 「引用」〝強調〟
詩歌 https://sizu.me/yatajis
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ドラマをビジネス的に推進すると言ってもね、こんな時世じゃ、推進される影のないドラマが快いもののはずないじゃないか。
差別を目指すやさしくなりたい魂
そういった創出にはどうしても出会いか、最悪でもテーマが必要であって、どうしても遅々としている。
いや、創現?
丁寧な思想という言い方それ自体なんだか矛盾を感じさせるし、丁重に扱わなければいけない思想という言い方をしても極めて傲慢な感じを感じさせるか、もしくは視点不明という感じがするけれども、ともかくそういう思想を折々表現してゆきたいという気持ち。
デマゴギーに基づいた陰謀論を「反知性」と形容するのは少しずれている気がしていて、デマゴギーに扇動される人たちの動機は「私こそが真理=真実を暴露し理解しているのだ」という「知への執着」だ。必要なのは、デマゴギーを「反知性」と見なすことではなく、ソクラテス的な「無知の自覚」だろう。
ポランニー『時代遅れの市場志向』の中で、「経済的動機」に誘われるようになったのは近代資本主義以降であり、この「経済的動機」というものは宗教的・美的・性的といった動機と同じような意味では存在しないものだと述べられていた。 そして、経済的動機・功利主義的世界観への強制的な改宗が西洋人の自己理解を歪めてしまったのだと。 ...近代資本主義発生以降の西洋哲学者を考えてみて思いあたるのがカントやヘーゲルなんだけれども?かれらは既にその〝歪み〟を時代背景に持っていたということだろうか。 ...こういうのに驚かされるくらい、西洋幻想というものが自分にもあったのかもしれないという、それだけ。
応援ソングというものは氾濫しているけれども、誰に対するどのようなエンパワメントなのか、全く分からなくなることがしばしばある。 文脈のない応援。 無内容な応援が応援として成立しているのか。仮に、創作者自身の像に向けて視聴者をエンパワメントするがゆえに無内容ではないとして、その回帰的な性格にやはり滲んでくる無内容さに(ここではメディアの無意味さが認知されているのだろう)しばしば哀しみを感じてしまう。
性格を描くことに重点を置いていることが、作中人物の批評眼に結果していることはしばしばあるが、普通それは悪趣味というもの。
アランという方が『芸術論集』のなかで「小説における仮構的なものは物語にはなく、むしろ思想が行動に発展する方法にある」という旨のことを言ったそう。なるほどと思います。
いやまあ、少なくとも僕にとっては、それらが価値の在り方に働きかけているとは到底言えないと思ったことしかなかったというだけのことですね。
研究は→工学の研究は
私工学部ですが、入学後から哲学にはまって、以後見聞きした研究はどれも、価値を「創造」など決してしていないだろうと思っている身であります。
