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思考2
「ながら練習」は有効だが、それと別に、「他人と歩調や呼吸を合わせる」ということも「ながら練習」的に、調整のための時間を積み重ねる必要がある。
(自分という系(世界)が単独で完結していると外部との協調がうまくいかない。内部の系と、外部の系の、結合を促進する工夫が必要なのか。)
(自分という系が「閉じた系」になっていると発展が難しい。
「系を開き、他の系と結合する練習」が必要になるのか。)

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思考2
「ながら練習」は有効だが、それと別に、「他人と歩調や呼吸を合わせる」ということも「ながら練習」的に、調整のための時間を積み重ねる必要がある。
(自分という系(世界)が単独で完結していると外部との協調がうまくいかない。内部の系と、外部の系の、結合を促進する工夫が必要なのか。)
(自分という系が「閉じた系」になっていると発展が難しい。
「系を開き、他の系と結合する練習」が必要になるのか。)
武者小路実篤は……
80枚のボツの創作分がウォーミングアップで、その後に、本番が来るらしい。
1枚や5枚や10枚書いて、どうもだめだ、とは考えないらしい。めげずにどんどん書くらしい。そうした話は中川一政さんにとって励みになったらしいが、自分もこの話が励みになるように感じる。
人から聞いた話だが、ある作家は、「物書きとして成熟していくには、何よりも、まずはたくさん文字を書くことこそが大事だ」と書いていたという話で、量をこなすことが大事だということを改めて今考えている。
最近よりは少し落ち着いた?音楽制作の再開と抑えられない創作衝動!?【9/28~10/4の日記まとめ】 #note #note更新 #日記 #1週間 note.com/hiro_hyoga/n...
先週1週間分の日記まとめ記事となります!
少し落ち着いた1週間ながら、新しい悩みも発生?
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「この人が好きだな」と思って、しばらく強い印象が残っていても、時間が経つと、そうした「自分の好き」を忘れてしまうことがあることを感じている。
……自分が雅楽演奏者の東儀秀樹さんが人として大変好きだと感じていたことを思い出した。今も好きだと感じるが、そのことを忘れてしまっていた。
自分が、何が好きで誰が好きなのかを、時々思い起こすことは意味があることだと思う。自分がどのように生きたいのか、という方針のヒントを、好きなものや人を思い出すことによって教えられることがあると思っている。
日本語で作文することは自分にとって今、明確にコーディングやプログラム作成のような意味を持ち始めている。
そのためには、一つ一つの言葉は、「定義が自分の中で明確になっている」方がいい。
一つの言葉がAのようでもあり、Bのようでもある、という時、自分なりに、「自分はこの言葉はAとして扱う」と決めておいたり、「この場(限られた枠内)では、この言葉はBとして扱う」という「自分に対する宣言」がある方が良い。
それがないと、「自分で自分向けに書いたレシピ」の中に、「白い粉末」と書いているような状態になり、…
こうして文章を書くことは、自分にとって、「その時その時の、自分の情緒を丸ごと形にする」という絵画的な役割もあるのだが、
それと同時に、「自分の中で、はけ口がなく、滞留してしまうエネルギーが、どう流れていくと良いか、その動線を設計していく作業」という役割もあるように感じる。
自分にとって作文は、
・情緒的性質=(色彩)
・論理的性質=(デッサン、形)
の両面において、大きな効用があると感じている。
そして、その後者にあたる論理的性質における方面の需要が自分の中に高まっていることを自分は感じている。
土曜日投稿するの忘れたー💦夏の思い出。
#LEICAQ2 #note更新
note.com/colorful_lin...
結局、人は人、自分は自分、ということで、他の人がものをどう感じていようと、自分がものをどう感じるかに従って自分はものを考えていくしかないと思っている。
ひひラジオ 第9回「最後の餃子か」「クイヤ」「良かったこの距離で」 #note #note更新 #ネットミーム #松本人志 note.com/hiro_hyoga/n...
今回のひひラジオは…8月ごろに流行ったネットミームを起点にトーク!?
これまでにない視点でお届けする5分間ラジオです!
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自分の内側の何もかもが、うまくネットワーク化され、有機的に連結され、連動した状態になることを自分は望んでいるのだろうか。
自分には、自分の望むものがそうした方向性だということのように感じられる。
自分のことながら、自分のことは半分くらいしかわからないような気がしている。人によっては自身のことは自明のことであり、わかりきったことのように感じられるらしい。
人によって、ものの感じられ方が違うようである。
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思いつく作家や書名を並べることで、記憶が攪拌されて、書く種が思いつくかもしれない。
今思いつく作家名や書名をいくつか並べてみよう。
羅列
大佛次郎、青山二郎、円地文子、河上徹太郎、今日出海、吉田兼好、芭蕉、本居宣長、ボードレール、柳田國男、折口信夫、菊池寛、トルストイ、ドストエフスキー、チェーホフ、
昔の日本の作家の作品だと、まだ読んだことがない作品でも、「内容は知らなくても、不思議とその匂いは知っていて、懐かしく感じる」ものだと自分は感じる。
最近はなんだか自分が疲れていることを感じている。
それなので、馴染みの中川一政や武者小路実篤の本を引っ張り出して、ところどころ開いて音読している。
そうすると気持ちがくつろぐ。
夜中、寝る前に武者小路実篤の小説を音読して、寝る前に気持ちがくつろいだ。
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遮二無二対象に迫っていこうとするよりも、見ているような見ていないような、という具合に対象をぼんやりと眺め、ことの成り行きに身を任せていく方がうまくいくことがある。
寺田寅彦の「手首について」という文章を最近読んで面白かった。
彼によれば、どうしても発想として物事をコントロールしたいという時に手首に力をいれがちになるが、そうした力みがかえって目的の達成を妨げるという。
楽器演奏(例えばバイオリンを例にしていた)にしても、何にしても、手首が融通が効く自在な、とらわれのない状態にあれば、うまく調整されていく。
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時々、体が盛んに発汗・発熱するくらいに運動をすると、体の中の新陳代謝が進み、老廃物が外へ出され、良さそうである。
それを考えると、精神や心も、時々、強く発熱し、発汗するようなことを設けられると、精神や心の中の新陳代謝が進み、老廃物が外へ出され、良さそうに感じる。
精神や心の中の温度を上げる工夫を探すこと。
自分が自分の内面をそれなりに形として描くことができ、自画像ができてくれば、自分以外の人にも、
「この人には、この衣服は合わないだろう」とか、
「この人には、この衣服なら合うのではないか」という見立てがしやすくなるのではないか、と思っている。
自分が書くことを始める以前は、自分以外の人は、「自分の精神の寸法」を知る手立てがなかったが、
書いて蓄積をしていくことによって、前よりは、それを知る手立てが用意されてきたのではないか、と自分は思っている。
2
「1」の話とつながるかわからないが、
著述家のドラッカーは、著作の中で、
「問題よりも機会に注目せよ」
ということを書いている。
(たしか「プロフェッショナルの条件」という文集から。)
この「機会」というのは、「問題=悩ましいもの、必要性、マイナスを避けようという利得計算」的なものに対する「意欲が向くもの、プラスを呼び込むチャンス」という感じのものだと思う。
「悩ましいもの」に目を向けて、その事ばかり考えていると、精神エネルギーが次第に消耗していくことを感じることがある。
■
ボブ・ディランについての本を読んで、その中で自分にとって面白い記述があった。
ある曲の説明でボブ・ディランはこういうことを語っていたらしい。
「新しいことをしようとする人間は、常に周囲から石を投げられる運命にある。」
確かこんな意味のことが書いてあった。
別に他の言い方や呼び方でも構わない。
「プログラム」とか「ことの成り行き」とか「見えざるレール」などでもいいと思っている。
別な角度から説明を試みれば、
「大根の種を植えれば大根以外の野菜にそれが育つ可能性は限りなく低く、結局大根に育つ、と言うような、この世の約束事とか定めみたいなもの」
を自分は運命と呼んでもいいし、生き物のプログラムと呼んでもいいし、と思っている。
自分は人生の歩みの成り行きの都合上、群に所属しておらず、また群れを大きく形成することもできていないので、それによって常に余計にリスクや脅威にさらされているような気がしている。
船団を作れていると、海の中の大波からも守られやすいが、
単独で航行しているとあらゆるリスクに脅威を感じることになる。
単独での航行は柔軟に進路を変えることができ、また窮屈さからも遠いというメリットもあり、
悪いことばかりではないが、やはり自分よりも大きな何かに守られていない、という無防備で心細い感じはある。
それにしてもやり投げ選手のピトカマキは他の選手にも感化を与えているらしい。日本の新井選手はピトカマキのスローイングをテレビで見て衝撃を受け、それでやり投げを始めたらしい。
ピトカマキは偉い人なのだろうと思う。
■8
こうして、自分の好きなものというテーマで文章を書くと楽しいことがわかった。
今後も継続していきたい。
また、「楽しかったこと」などのテーマで書くのも面白そうだと感じる。